久高島と今帰仁グスクに関連する史跡めぐりを、2018年秋の研修旅行で行います。(11月27日・28日)
めぐる予定の史跡を以下でご紹介します。
久高島

久高島は、琉球の創造神アマミキヨが降臨したとされる琉球神話の聖地とされている。五穀伝説、国王への献上品イラブー、久高御殿などの見どころがいっぱいの島です。
裏の歴史では、尚巴志が秘かに海外交易を行い、鉄や貴金属を輸入した島でもあります。
今帰仁グスクに関連する南部の史跡
玉城城(タマグスクグスク)跡 南城市
築城年代は定かではない。「中山世鑑」には、琉球神アマミキヨが築いた7つの御嶽(ウタキ)のひとつと紹介されている。
沖縄戦で城壁は崩落し、残るのは主郭の城壁のみ。城門は東北東を向き、太陽が照らす現象で有名になる。
夏至の太陽が城門を貫き、クニヒヌカン(天つぎあまつぎの御嶽)を照らす。
冬至には、沈む太陽がグスク内から城門をくぐり抜け、玉城王や西威王の墓を照らす。
糸数(イトス)グスク
南部で最も高い丘にある。標高190m。
城主の糸数按司(アジ)は、玉城城主の三男といわれ、14世紀、中山軍の上間按司に攻め滅ぼされたと伝えられる。
近くに南部戦跡の1つ糸数壕がある。
および、四男「喜屋武久子(ちゃんくし)」の根屋

外間子の墓(画像上)
外間子(ふかまし)は、今帰仁城主攀安知王の三男。
姓は應(おう)、童名は思鶴寿金。
今帰仁城落城の時のこと。攀安知王の世継ぎを生んだ母で、攀安知の側室だった真加戸金は、三男と四男を連れて、カンジャー大主(ウフシュ)と共に逃げる。しかし、仲泊の山田グスク近くで、追跡してきた尚巴志軍に捕らえられる。
尚巴志の拠点、佐敷城で拷問を受けるが、中国人軍師賓比に助けられ、津波古村に百姓として住むことを許される。
身重だった真加戸金は、五男の虎寿金(とらじゅかね)を出産するが、尚巴志に人質として取られる。
三男と四男は中国に渡り、武・漁具・製塩・藍染等を学び、国内に広めた功績で7石の褒章を賜る。後に、五男虎寿金が侍に引き上げられ、母子ともに位を与えられる。

北山王香炉のある神屋(画像上)
糸満市字潮平「今帰仁腹」、「ウクマグスク」、「スンザモー」

今帰仁腹(画像上)
次男は、攀安知王の長女「真亜佳度 金(まかとかね)」、叔父「湧(わく)川(がわ)大主(うふぬし)」らとともに海からこの地(潮平)に上陸。
その後、製塩業で生計をたて、子孫が繁栄し、潮平(すんざ)村を形成する。
「今帰仁腹」は大殿内(うふどぅんち)門中、百次(むんなん)門中、名加(なか)・湧川(わきゃー)門中、宇久佐(うくさ)門中 百次小(むんなんぐわぁ)門中の五門中で管理している。

この古墓から今帰仁腹に移したといわれるが、攀安知王の次男「志慶真王子」の骨がまだ残っているのではないかと思われる。しかし、詳細はわかっていない。宇久佐門中が管理し御願をしている。

南城市佐敷にあるスンザモー(画像上)
ようやく三男・四男と再会し、打倒尚巴志の計画をするため密会したといわれているが、尚巴志打倒は実現しなかった。
読谷村「渡具知泊城」

丘春の墓(画像上)
按司の嗣子千代松金は名を丘春と改め、読谷間切、北谷間切、砂辺村へと落ち延び、読谷山大木徳武佐で難を逃れる。
丘春は、仇討ちの機会を待ち、18年後に旧臣を集め、本部大主を討って本懐をとげ、城を奪い返す。しかし、次の代後、北山の怕尼芝に攻められ中北山はついに亡んだ。
時の若按司は本部具志堅で死す。隠居の身の仲宗根按司「丘春」は戦に追われ、住み慣れた読谷山間切に逆戻り、当地にて城奪い返しの態勢を整えたが、力及ばず遂に当地で終身する。
丘春と臣下の骨は、東方の鷹の目洞窟に葬られる。
以後、北の一帯を「渡具知泊城」と称す。

仲昔今帰仁按司祖先之墓(画像上)
初代の屋良大川按司は第3代今帰仁城主の五男にあたり、父祖の墓を大事に守ったと伝わる。

北山の系図(画像上)